ケアとしての編集ーー社会的共通資本はいかに育めるのか

2021.3.13 石川琢也

新刊『新世代エディターズファイル 越境する編集ーデジタルからコミュニティ、行政まで』(BNN)刊行を記念して、本書に掲載された共編著者のコラムを特別に全文掲載します。

「ケアとしての編集ーー社会的共通資本はいかに育めるのか」
石川琢也

編集者を語るという本稿において、肩書として編集者ではない筆者が何を語るべきだろう。2020年3月まで、私は山口市にあるアートセンター山口情報芸術センター[YCAM]にてエデュケーターの肩書で、教育プログラムやワークショップ、展覧会の体験デザインや、地域コラボレーターたちとのリサーチプロジェクト、研究者やアーティストとの音楽イベントの企画制作と、横断的な範囲の業務を担当していた。本書の企画が立ち上がった2020年4月には、京都芸術大学(旧:京都造形芸術大学)に籍を移し、研究者として新たな肩書を得たわけだが、この肩書からはみ出る部分をなんと形容するべきなのかについて、しばしば考えていた。そこで、本書の制作を通じて、編集者という枠に収まりきらない仕事のありようや普遍的な要素を見通したいという気持ちで取材やリサーチを行ってきた。話を聞き進めていく中で、「ケアとしての編集」というものが浮かび上がり、本稿ではそのことについて解説してきたい。

変容する社会的共通資本

都市であろうと、ローカルであろうと、私達の生活空間は無数の「そういうもの」で成り立っている。ある時必要とされ、つくられた造形物やルール、「そういうもの」の存在は私達の生活には不可欠であり、日常を潤滑にしてくれる重要な要素である。経済学者の宇沢弘文(1928~2014年)は大気、河川、森林、水、土などの自然環境、交通機関などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、コミュニティなどの制度資本を社会的共通資本として提唱した。社会的共通資本は、時間の経過とともにその役割に変化が生じ、時代に適さない状態になる際に、私達は新たな「そういうもの」と捉え直すことを無意識のレベルで行っている。

これは経済や人口が右肩上がりの時代では、不具合があれば新たにつくり直すということでさほど気にせずとも良かったものの、経済的な停滞期には、負の遺産として浮き彫りになることがある。端的な例として、2007年に財政破綻した夕張市は、10年間で11校あった小中学校が小学校、中学校それぞれ1校に統合され、老朽化した道路や市営住宅は改修したくとも、財政難から修復がスムーズに進まない状態が生まれている★1。

対応を担う自治体の基本スタンスは保全と補修である。予算さえあり、カタチあるものであれば、壊れたものを新しくすることで、その目標は達成できる。ただ、保全と補修が目的化され、誰がそれを使うかが問われずつくり直された場合、早晩新たな「そういうもの」として浮き上がることは想像に難くないだろう。本書で紹介する編集者たちはまさに「そういうもの」に対して、新しい文脈で語り、ときにラディカルかつ軽妙なアプローチによって、役割の再定義や拡張を試みている。その行為こそ「ケアとしての編集」と言える。

ケアという言葉で想起するのは、エッセンシャルワーカー、つまり医療・福祉、農業、小売販売、物流、公共交通機関など、社会生活を支える仕事をしている方々である。アナキスト人類学者デヴィッド・グレーバーは著書『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』★2 にて、エッセンシャルワーカーのような、人の役に立つにも関わらず、待遇が悪くキツい仕事を「シット・ジョブ」とし、当人が世の中に役立たない、害悪ですらあるかもしれないと思っていながら、意味があるかのように取り繕って従事せねばならぬ仕事を「ブルシット・ジョブ」と分類し、さまざまな事例をユーモアを交えながら分析している。グレーバーの本著での慧眼は、本質的にはすべての仕事にはケアという要素が含まれている、と見い出したことではないだろうか。ケアはすべての仕事に含まれるのであれば、本書で紹介する人たちは何をケアしているのだろうか。事例を交えて、考察していこう。

「そういうもの」を拡張させる職能

本書でも紹介しているArcadeは和歌山にゆかりある建築家やデザイナー、編集者ら約10名で構成されるメンバーを中心に、年に一度開催される、2日間限定の仮想商店街である。2015年からは紀北のJR海南駅前、2019年からは紀南の勝浦漁港と、和歌山県内を舞台に3年ごとに会場を移している。会場となるのは、そのエリアで暮らす人たちにとって「そういうもの」として象徴的な場所である。2日間だけ立ち上がるお祭りは、その空間のもつ従来の意味を思い起こさせ、さらにいきいきとした拡張した姿として立ち上がっている。今後、3年おきに行われる和歌山県内での新たな会場探しは、まさに新しい文脈によって「そういうもの」の拡張性を見い出すプロセスとなり、それこそが「ケアとしての編集」である。Arcadeのメンバーはプロジェクトを推進する動機として、生まれ育った和歌山から受けたカルチャーに対する感謝と返礼、そして若い世代へのバトンをつなぐ意味合いがあると語った。人や文化、風土に対する返礼としての「ケアとしての編集」は、本書で紹介する編集者たちのさまざまなプロジェクトで見ることができる。

Arcadeホームページ

自治体の本質的な役割は、社会的共通資本をこれからの状態に整えるケアセンターともいえる。今後も日本各地で行政が主導となり、都市やローカルコミュニティでのさまざまなエリアマネジメントや、利便性の追求としてのスマートシティ、地球環境を視座に含めた生態系の取り組みが行われるだろう。その近くに「ケアとしての編集」ができる人たちがいることは、自治体にとっても心強いことではないだろうか。また新たな技術やアプローチを駆使した次なる世代のエディターの誕生にも期待してしまう。彼ら・彼女らにとっても、「ケアとしての編集」は有用なはずである。ぜひ本書を読むにあたっては、この編集者は何をケアしているのか、という視点をもっていただければ幸いである。

★1 NHKスペシャル取材班著『縮小ニッポンの衝撃』(2017年、講談社)
★2 デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』(2020年、岩波書店)

『新世代エディターズファイル 越境する編集ーデジタルからコミュニティ、行政まで』

編著:影山裕樹、桜井 祐、石川琢也、瀬下翔太、須鼻美緒
出版社:BNN
発売日:2021年3月16日
ISBN:978-4-8025-1199-5
定価:3,400円+税
全国の書店、およびネット書店にて発売
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ライタープロフィール

石川琢也(Takuya Ishikawa)

UI·UXデザインを職務とした後、山口情報芸術センター [YCAM]を経て、2020年から京都芸術大学情報デザイン学科クロステックデザインコース専任講師。

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