ローカルメディアが組み替える「地域」への眼差し

2018.2.2 仲俣暁生

「マガジン航」ウェブサイト

私は本と出版の未来を探る「マガジン航」というウェブメディアの編集・発行を行っているフリーランスの編集者です。「マガジン航」では一昨年に日本全国のさまざまなローカルメディア(雑誌、ウェブサイトなど)に関わる人を講師にお招きした「ローカルメディアのつくりかた」という連続セミナーを3回にわたって開催し、この分野に対する関心の高まりを実感しました。さらに昨年からは一般社団法人地域デザイン学会に参加し、ローカルメディアフォーラムを影山裕樹さんとともに運営しています。

紙メディアからウェブメディアの時代へ

これまでの自分の仕事を振り返ると、最初の就職先がそもそも東京ローカルのイベント情報を扱う『シティロード』という雑誌の発行元でした。当時、このような雑誌が日本中にはたくさん存在しており、タウン誌とも呼ばれていました。もっとも成功したのは『ぴあ』や『東京ウォーカー』ですが、たとえば大阪には『プレイガイド・ジャーナル』や『エルマガジン』があり、その他の地方都市にもそれぞれ長く続いたタウン誌・情報誌がありました。いまではネットやスマホでやりとりされている映画やコンサートや演劇や美術展などのイベント情報が、紙の雑誌を介して流通している時代だったのです。

しかし『シティロード』は1990年代のはじめに休刊してしまい、私の仕事は1990年代の半ばから紙メディアからインターネットの世界へと次第に広がっていきました。私がネット系の仕事を始めるきっかけとなったのは、なんといってもウェブの登場です。放送局や新聞社、出版社といったメディア事業を専門とする企業だけでなく、個人や小さな組織、異業種の企業でもメディアをもてる時代がこのときから始まりました。いまではウェブメディアそのものがYahoo! JAPANなど巨大企業が運営するものになってしまいましたが、当時はまだ個人や小さな組織でも大企業と互角に戦える牧歌的な時代でした。

その後、書籍出版社やIT企業の出版部門での編集経験を経て、いまはウェブメディア「マガジン航」の編集をしつつ、今後のメディアのあり方について考えています。主流メディア、とりわけ商業出版の市場規模が劇的に小さくなっていくなかで(1996年には2兆6564億円あった紙媒体の出版市場は、2017年には1兆3701億円まで縮小してしまいました)、そのオルタナティブとして私が注目しているのが「ローカルメディア(地域メディア)」です。

もっとも、先に断っておかなければなりませんが、これは「地域メディアが主流メディアの市場の落ち込みをカバーする」という意味ではありません。1兆円以上もの市場激減は日本経済全体の長期的なデフレ傾向や生産人口減ともかかわっており、出版やメディア業界のみの傾向ではありません。ただ一つ言えることは、東京から発信される大量生産・大量消費型のマスメディアの有効期限が、そろそろ限界を迎えているということです。それは、かつては数十万部も発行されていた大手出版社の雑誌が、いまではせいぜい数万部しか発行されていないということからみても明らかです。地域社会のリアリティと、中央のメディアが発信するリアリティとの間に、あまりにもギャップがあるのです。

左『ローカル・メディアと都市文化―『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』から考える 』、右『ミニコミ魂』

オルタナティブとしての「ローカルメディア」

私はいま、ローカルメディアの歴史をあらためて振り返る研究をしたいと考えています。日本全国で発行されてきたさまざまなローカルメディアの多くは、90年代ごろからいわゆる「ミニコミ」(リトルマガジン、という言い方もあります)などと呼ばれはじめた「小さなメディア」(津野海太郎)であり、一般的な書店流通では手に入らないものが多く、これらについての研究はそれほど盛んではありません。私が知る限り、この分野を知る上で重要な資料としては以下の4冊が挙げられます。

・ミニコミ研究の草分けである田村紀雄さんによる『日本のリトルマガジン〜小雑誌の戦後思想史』(出版ニュース社、1992年)
・日本中のローカルなミニコミを集めて紹介した、串間努さん編纂の『ミニコミ魂』(晶文社、1999年)
・東京の「谷根千」地域で発行されていた伝説的な地域雑誌についての、獨協大学教授の岡村圭子さんによる本格的な研究書『ローカル・メディアと都市文化―『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』から考える』(ミネルヴァ書房、2011年)
・1960年代から現在までの膨大なミニコミやZINEのアーカイブともいえる、ばるぼらさん、野中モモさんによる共編著『日本のZINEについて知ってることすべて』(誠文堂新光社、2017年)

とりわけ90年代からはDTP(デスクトップパブリッシング)、つまりパソコンをつかった制作方法が普及したことで、インディペンデントな出版物が急増していきました。これらの出版物に対しては、「オルタナティブ」という言葉がよく使われました。それまでの「ミニコミ」がしばしば「カウンター・カルチャー(対抗文化)」、つまり主流に対するアンチの立場としてみられていたのと異なり、「もう一つの選択肢を提示する」という積極的な意味をもつ「オルタナティブ」と呼ばれるようになったことの意味は大きいと思います。この「オルタナティブ」という視点から見たとき、ローカルメディアのなかにその可能性が見いだせるのではないか、という気持ちが私のなかで高まっていきました。

ところで、〈東京〉という場所をメディアの中心地ではなく、ひとつのローカル社会として見た場合、じつは〈東京〉全体をカバーするメディアはありません。あえていえば『東京人』という雑誌がありますが、どちらかといえば趣味的・回顧的な内容であり、現在のリアリティをすくいとっているようには見えません。なにしろ〈東京〉というのはあまりに漠としたエリアであり、首都圏まで拡大すると最低でも神奈川・千葉・埼玉を含む一都三県までが対象となります。逆に細かく見ると、23区や都下の市町村にはあまりに多種多様なコミュニティがあり、一体感がありません。

「オルタナティブ」という観点で東京に暮らす自分の足元を見つめ直したとき、そこにはリアリティを感じることができるローカルメディアが一つも存在しないということに気づいたのでした。

「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」

地域のアイデンティティを掘り起こすメディア

東京のローカルメディアの成功例としてよく知られているのが、先に紹介した本でも研究対象とされている『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』です。通称「谷根千(やねせん)」と呼ばれたこの雑誌は1984年にこの地域に住む三人の女性によって創刊され、25年にわたり活動を続けた後、2009年に終刊しました。この雑誌の特徴は、地元の住民に対する聞き書きによって地域の歴史を掘り起こし、いまでいう「まちづくり」の足場を再確認したことにあると言えるでしょう。

この雑誌が創刊された1980年半ばから後半は、いま思えばバブル経済の最盛期であり、東京の町はどこも地上げや再開発の波に襲われていました。そうしたなかで、自分たちの暮らす谷中・根津・千駄木という界隈のアイデンティティを掘り起こし、過去から現在まで辿ってきた道を確認することがこの雑誌の一貫した姿勢となりました。いつしかこの地域は、この雑誌の略称「谷根千」と呼ばれることが一般的になりました。小さな地域雑誌によって、界隈のアイデンティティがくっきりとかたちをとり、広く知られるようになったのです。

「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」はいまも「谷根千ねっと」というサイトでバックナンバーが購入できる他、映像アーカイブなど、雑誌以外のコンテンツも見られます。

ところで、ローカルメディア(ここでは紙の雑誌に限定します)の歴史をひもとくと、時代ごとにさまざまな展開があったことがわかります。地方都市を拠点とした出版は、地方文芸誌としては明治時代から各地に存在していました。また政治運動・市民運動にかかわる雑誌も、戦後になると各地でさかんに刊行されるようになります。「ミニコミ」という言葉は、こうした流れのなかで生まれたもののようです。

ちなみに「谷根千」を発行していた女性三人(のちに作家となる森まゆみさん、その妹である仰木ひろみさん、主婦仲間の山崎範子さん)はいずれも1950年代生まれです。彼女らがつくったこの雑誌の特徴は、それまでの伝統的な「文芸誌」とも、「政治・市民運動誌」とも一線を画するところにありました。また「谷根千」は、1970年代から日本全国でさかんに発行されるようになる地方の「タウン誌」や「PR誌」ともことなり、掲載されるのは故郷自慢でもなければ当地のイベントやお店の情報でもなく、あくまでもその地域の生活に根ざした記憶の掘り起こしと伝承、いわば「オーラル・ヒストリー」でした。

「オルタナティブ」なメディアとしてのローカルメディアの可能性を考える上で私が「谷根千」に関心をもつ理由もそこにあります。いまでも日本中で、さまざまなローカル雑誌が刊行されていますが、その多くは旧来型の「タウン誌」「情報誌」あるいは「PR誌」です。ローカルメディアの記事の主役はどうしても目の前を流れる情報になりがちですが、地域のアイデンティティを掘り起こす道具としてメディアを活かすことは、目の前の情報を伝えること(それはインターネットでもソーシャルメディアでもできることです)以上に、これからの地域社会、あるいは日本全体を考える上でも重要なことだと私は考えます。

東日本大震災を契機として

ローカルメディアに対する私の関心は、2011年の東日本大震災以後にふたたび強くなっていきました。そのきっかけとなったのは、雑誌『AERA』のある号のキャッチコピーへの怒りと、そのことが教えてくれた主流メディアの限界でした。『AERA』のこの号の表紙には、放射線防護服とマスクを被った人物の写真の上に「放射能がくる」との文字が大きく書かれていました。福島第一原発で起きた事故の行く末に誰もが不安を抱えているなかで、この号は果たして誰に向けて作られていたのでしょうか。

この号の「放射能がくる」という言葉は、明らかに被災地に対する眼差しが、雑誌の消費地である「東京」(を中心とする首都圏)からのものであることを暴露していました。震災の現実を客観的にレポートするのでも、被災地の実情に寄り添うのでもなく、ひたすら自分たちの安全と安心だけを願う利己主義を、この表紙の言葉から私は感じざるを得ませんでした。ようするに、『AERA』は良くも悪くも「東京のローカルメディア」だったのです。

そんな『AERA』とは対照的なローカルメディアが、東日本大震災後に東北地方で立ち上がっています。2012年に創刊された『震災学』(発行:東北学院大学、発売:荒蝦夷)です。それまでなんどか発行元を変えつつ刊行されてきた『季刊東北学』という雑誌を受け継ぐもので、地域の歴史や経験をふまえた知識(ローカルナレッジ)を学問として練り上げていこうという姿勢に貫かれています。こうした地域学とローカルメディアとのかかわりも、今後はますます重要になっていくでしょう。

2017年12月に荻窪・6次元で開催したローカルメディアフォーラムの様子

このところ地方発のジンやリトルプレスを特集した雑誌や出版物が目につきます。しかし、比較的に若い世代を中心とするこれらの新しいメディアと、過去数十年にわたって続いてきた地方出版社や地域雑誌の活動とは、あまりうまく接合されているようには見えません。横のつながりと同時に、縦のつながりをつくっていく必要を感じます。

日本全国のさまざまな地域でメディア(雑誌にかかわらず、施設やスペースも含む)の運営や発行に関わる人たちのネットワークを作り、相互交流のなかで、ローカルメディアがどうしたら小さくとも「オルタナティブなメディア」となりうるのか、そのノウハウや経験を共有していく仕組みをつくりたいのです。昨年開催したローカルメディアフォーラムでは、EDIT LOCALにも寄稿された小松理虔さんにもご登壇いただきました。ローカルメディアフォーラムは今年も開催する予定です。ぜひふるってご参加ください。

マップ

ライタープロフィール

仲俣暁生(Akio Nakamata)

フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。

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